人物伝

朱子学の祖・朱熹や益軒を絶賛したドイツの医師・シーボールトの他、貝原益軒の関わった人々について

 

【朱熹(しゅき)】
(1130年~1200年)
中国南宋の政治家で儒学者。古来からの儒教書をまとめ上げ体系化します。儒教の基本となる四書「論語」、「孟子」、「大学」、「中庸」に注釈を附した「四書集注」は、儒教を学ぶテキストとされました。日本では朱子学として儒学の主流となり、江戸時代の「寛政異学の禁」では幕府より儒学の正統派とされ、陽明学など他派の儒学の講義は禁止されています。益軒はこの朱子学の儒学者でしたが、晩年には「大疑録」を記し朱子学への疑念を著わしています。

 

【栗山大善(くりやまだいぜん)】
(1591年~1652年)
黒田官兵衛の信頼の厚かった栗山利安の息子。 栗山大善は第二代藩主の座に黒田長政の長男の忠之を就けますが、 その後、何かと行動に問題のある藩主・忠之との間に軋轢を生じ収拾不可能となると幕府に訴え出ます。 幕府は徳川家と黒田家との関係を重視し大善を南部藩預けとし、忠之の寵臣を高野山への追放し事を収めました。 これが「黒田騒動」ですが栗山大善は南部藩で余生を過ごし20年後に没することになります。 この時の藩の存続を危うくした大善の行動に関しては肯定派と否定派に分かれたようです。 この事件との関係はないのでしょうが、貝原益軒は「筑前国続風土記」で 甲羅干しをしていた大亀をたまたま通りかかった栗山大善が得意の鉄砲で撃ち殺したため大洪水が起こったという伝説を紹介しています。

 

【貝原寛斎(かいばらかんさい)】
(1597年~?年)
福岡藩の儒学者で益軒の父。福岡藩の右筆として第二代藩主・忠之に仕え、益軒も忠之に出仕させますが、益軒は忠之の怒りを買って浪人します。その6年後には益軒を忠之から光之へ代の替わった黒田藩へ復帰させています。「貝原益軒屋敷跡」の案内板では藩医ともされています。

 

【黒田忠之(くろだただゆき)】
(1602年~1654年)
行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗山大善と不仲になります。 二人の関係が泥沼化すると忠之はついに大善から幕府へ訴えられます。 改易が相次いでいた時期でもあったため黒田藩も取り潰しの憂き目に合いますが、 幕閣の配慮により大善は南部藩預かりとなりことは収められました。
益軒は19歳で藩に出仕し、その翌年には何が起こったのか、忠之から「閉居半月、謁見不能四ヶ月」を言い渡されています。

 

【宮崎安貞(みやざきやすさだ)】
(1623年~1697年)
広島の出身で一時、福岡藩へ仕えますが5年ほどで自ら浪人し、周船寺村で農業の研究に没頭します。 そして晩年には名著「農業全書」を貝原楽軒の協力で出版します。この書は施政者や農業関係者より絶賛され、 その後の農業に大きな影響を与えたといわれています。益軒はこの著作に序文を、恥軒はあとがきを添えています。

 

【貝原楽軒(かいばららくけん)】
(1625年~1702年)
福岡藩の儒学者で益軒の兄。貝原恥軒の父。宮崎安貞の「農業全書」では删補(さんほ。削り補う事。校正。)及び巻之十一(付録)の記述を行っています。

 

【貝原東軒(かいばらとうけん)】
(1651年~1713年)
秋月藩士の娘で益軒の妻女。1668年に数え年18歳で39歳の益軒と結婚します。書・和歌の他、箏(そう・琴に似た楽器)や胡琴(こきん・中国から伝わった弦楽器)などの楽器にも通じていました。益軒の著作編纂を陰から助け、「女大学」を記述したのは東軒ではないかといった説もあります。益軒が没する前年に63歳で亡くなっています。

 

【竹田春庵(たけだしゅんあん)】
(1661年~1745年)
福岡藩の儒学者。三代藩主・黒田光之に仕え、益軒の弟子となります。竹田家は代々福岡藩の儒学者として朱子学を教え、孫の竹田定良は藩校・修猷館の初代館長となります。

 

【貝原恥軒(かいばらちけん)】
(1664年~1700年)
福岡藩の儒学者で益軒の兄の子。名は好古(よしふる)。叔父・益軒の著作編纂を助け、25歳の頃に益軒の删補(さんほ)で「日本歳時記」を世に出し、益軒が没する14年前、37歳で早世しています。

 

【シーボルト(しーぼると)】
(1796年~1886年)
1823年、長崎に来航した翌年に鳴滝塾を開き、患者の診察治療活動や集まった塾生に西洋医学、科学を教授します。 これにより鳴滝塾からは伊東玄朴、高野長英、二宮敬作、伊藤圭介の他に幾多の人材が輩出されます。 またの使命とする日本の動植物の情報を収集していますが、この時、貝原益軒の「大和本草」などの著作に触れ絶賛したといわれます。 1826年の江戸参府の際は、長崎街道を通り、 山家宿(同じく筑紫野市)の黒田藩の別荘に宿泊しています。 また1828年には福岡藩主・黒田斉清の訪問を受け「本草学」について質問攻めに合っています。 斉清はこの時の問答を部下に命じ「下問雑戴(かもんざっさい)」という書物で後世に残しています。 シーボルト自身は筑前に長逗留する事はありませんでしたが、この地には強い印象を感じていたのかもしれません。